生命系を理解するには、分子生物学を用いて、DNAやそれが担う情報全体で あるゲノムを解析する方法が主流である。しかし、生命の起源や単細胞生物か ら多細胞生物への進化を考える際にはゲノム解析で十分であるのか疑問である。 なぜなら、生命系は部分と全体が相互作用し合う典型的な複雑システムであり、 ゲノム解析のようにスタティックで、ミクロの要素(ゲノム)とその相互作用 (ゲノムの文法)の組み合せだけで生物の構成原理を理解しようとする還元論的 な方法論では生命系のダイナミズムを理解するのに十分とは言えないからであ る。生命系を複雑系としてとらえる力学系アプローチが生命系の理解に有効で あることを示す知見がいくつか得られている。中でも、金子邦彦氏は高次元力 学系の振舞いであるカオス的遍歴や様々なクラスター化により理解しようとし ている。この論文では金子氏の研究を基に、細胞内の化学的相互作用を力学系 モデルで表現し、数値実験によって細胞の分化過程を構成論的に理解しようと 試みる。 生命システムは、細胞内で様々な分子が化学的に相互作用しており、細胞膜や 媒質を通して拡散、移流といった細胞間の相互作用をしている化学システムと 仮定される。よってモデルの基本は化学反応系とし、拡散、移流という相互作 用をもつ大域結合系としての構造を組み込むために Globally Coupled Map を 用いる。このモデルは細胞内外での相互作用と細胞分裂といった過程により、 細胞内の化学物質の濃度が時間発展する系である。 数値実験による監察は以下の通りである。金子氏の提案した化学物質が3種類 の最も単純な系では、細胞数の増加とともに細胞集団の相互作用が変化し、化 学物質の濃度の振動状態が時空間や相空間上で見られることを検証した。この ような現象はこの単純なモデルではパラメータに依存しない普遍的な現象とし てみられた。さらに著者が上述のモデルを拡張して、化学物質の数を9種類に 増やして数値実験した結果、化学物質の状態変化が多様になり、細胞分化の一 種とみなせる現象が、モデルのパラメータに依存せず普遍的に確認できた。 以上により生命系の細胞分化現象に限っては、力学系による理解の可能性を示 すことができた。